とにかく読了後、何かできそうなパワーがわたくしにみなぎっていた、あの半月の夜から時間が過ぎていき、満月の夜である。
しかし現実は、そう上手く運ばなかった・・・。
ド反抗期で不登校息子は受験生。
そんな彼の勉強に関するニーズは理解できるものの、
彼の心に興味深く吸収されていくようなサラサラした言葉でもって情報を提供することが、わたくしにはできない!
グダグダなやり取りを数回重ねているうちに
THE更年期のわたくしは怒り心頭!動悸めまい耳鳴りが息子への暴言を誘発してしまう。
かくして、わたくし自らのホームスクーリングけん引は早々に終了となった。
いやいや、待て待て!次の作戦に移行しよう!!
ホームスクーリング成功に必要な基盤は、なんだったっけ?
彼の成長に重要な意味を持つ人間から【理解】【援助】【擁護】を受けた自由な時間が確保されていること。
成長に意味を持つ人間、というのが、親以外の誰かというならば、この一年半、ずっと求めているのだ(;´∀`)
しかし、なかなか…。
わたくしが、この人ならばと思う他者に息子を会わせようとしても、
息子は拒否/逃走/隠れんぼ。
学校だけではなく、学校以外の場所での教育の機会も受けつけなかった。
ならば仕方ない。またの機会に…。
教育は、子供のニーズと興味により導かれるべきと、分別の良い親の仮面を被って涼しい顔をしてきたわたくし。
小さな糸口をみつけ、つないでは切れ・・・。
しかし仮面はもろいのだ!
ひび割れてモロモロになってずり落ちそうなのだ!
昨夜も、今月一度も通塾していない塾から電話を受け、脱力と怒りを感じたばかり。
息子が居る家で泣くわけにはいかず、わたくしは泣く場所を確保するために車を走らせたのだった…。
心がひしゃげないうちにホームスクーリング成功への作戦をおさらいしよう!
親の心構えとしての項目もあったことも忘れてはならない。
子供の勉強を頭痛の種と感じていないか?・・・YES
辛抱強く接しているか?・・・・・・・・・・・NO
時間に追い立てられていないか?・・・・・・・・YES
疲れやストレスを感じていないか?・・・・・・・YES
言いすぎていないか?・・・・・・・・・・・・・YES
・・・わたくし、全然だめ。
それから最大のポイントがコレであった!!
その期待は矛盾していないか?
とっても矛盾しているからこそ息子に腹が立つ。がっかりする。悲しい。つらい。憎い。悔しい。もったいない。残念。なんとかしたい。
矛盾しない程度の期待を寄せるって、どの程度だろう?
わっからない。
でもすごく大切な軌道修正につながるに違いない!
よし!明日からは期待の軌道を実践しよう!
家庭学習向きの子供の特徴として記された一文が、うちの息子とドンピシャだった。
マンツーマンの関係で生き生きする子は、二人以上のグループに入ると途方に暮れてしまう。このような子供はホームスクーリングが適している。
1歳児に満たない頃から大勢のグループから外れて遊ぶ傾向にあった息子。友達1人と自分ならば和気あいあいと遊べるのに、と不思議だったことを、ふと思った。
後に学校の授業でよくある『グループで考えをひとつにまとめて発表しなさい』とやるやつも大の苦手だった。それこそ途方に暮れた様子で!
『グループで』の形では当然のことだが、主導権を握ったり、他人と連携する能力に優れた子供が主軸となる。後に成績表での観点評価も当然抜群に良い。
一方でウチの子みたいなコミュニケーション能力が未発達な子は輝ける場が極端に少ない。自分の意見があったとしても体の外に発する間もなく消えていく。そんな環境下で自尊心も育たないわけだ。
わたくしの小学校時代は、先生とマンツーマンで向き合う場として『自由勉強ノート』なるものがあった。毎日、自己学習し、担任の先生が目を通し、何かしらのコメントを赤ペンで入れてくれるのがうれしかった。
中学時代は文系科目は「○○についてノートに書いて提出」というのが頻回あり、これもまた先生がコメントを書き入れてくれた。次の授業では先生がノートの内容をピックアップした生徒に発表させる、なんて形式で進行した。大勢の中では埋もれてしまう意見でも、先生が見てくれた赤ペンの跡は、勇気を与えてくれたものだが・・・。
昭和の教育の良さは、そんなところにあったかな、と回顧する。
積極的に発言したり、他者と連携する力をつける意図からグループセッションが多く採用されているのは理解できる。だからこそ、うちの息子には、今どきの授業体系よりもホームスクーリング、または昭和の教室が適していたことだろう。
さらにホームスクーリングの心得は続く。
大勢の中で目立ってしまうことの怖れ
失敗することに対する怖れが病を引き起こす。
誤回答したら後ろ指をさされるのではないか?
そんな怖れの侵入を見逃さない。
そして比較からの永遠の休息を与える場となる。
満たすことができるのは、空のコップだけ。
学校の授業で出会うはじめてのことって、今どきは少ないのかもしれない。
なぜって、おおよその子供は塾などの校外学習機関に通所しており、そこであらかたお勉強済の状態で授業に臨むから。
フレッシュな情報が少ない学校授業で、誤回答して目立ってしまう恐怖を感じる子供は実際多いのではないだろうか。
あらかた注がれたコップを持ち寄って授業に臨めば、感動も希薄だろうな、と察するに至る。
学校の先生もたいへんだ(;´∀`)
我が家は幸か不幸か塾についても不通所である。
依然、空っぽのコップを持つ息子が自分で知識を満たそうとしたあかつきには
もう、ジャバジャバと知識を注ぎまくることができるのだ!
あふれ出ちゃうかもしれないからわたくし、枡になって受け皿しなくては。
純粋な喜びとは
目的意識を持たないたくさんの活動から得られる。
邪魔されない安住の場所の必要性。
なんだか聖書に出てくる文言のようだが、わたくしなりの解釈をしてみた。
本来、探求心が満たされることが喜びだとするなら、
目的意識につながらない学びを生涯つづけていくことにより豊かに生きていけるだろう。
受験という目的から外れた勉強をしてみたら塾にこだわる必要もないし。
…そういう目で見てみる息子の本棚。
不登校当初は戦国時代の小説が主だった。
今年に入るとアウトドア関連の書籍が増えてきて。。。
現在はメタルマッチで火だねに火を付けてから蚊取り線香を炊き
日陰で中世の要塞についての関連書籍を読んでいる…。
一年前の夏、息子は部屋の中にバリケードを作り、大暴れしていたから、
そこと比べたら彼の安住の陣地はずいぶん拡大したわけで。
この先、時間をおいてから今を振り返ることがあったら、
息子ととわたくしのホームスクーリングも、悪くはなかったなぁーなんて思ったりするのかもしれないと妄想している。
あと少し、もうすこしだけ…。
あれ?そんなタイトルの小説も息子の本棚にあったな…