不登校息子+親介護+単身赴任夫=思秋期なあたくし。

怒涛のようにやってきた不登校と介護と夫の単身赴任の荒波を、更年期のあたくしがサーフィンする日々の記録です。

あをによし。鹿せんべいをあげに

ブログがアップされてませんよーパソコン壊れたままですか?

 

…と、オーストラリアに住んでいる幼なじみからメッセージが届いた。

いや、パソコンのせいにして書かないのではなく、なんとなく書けなくなってしまった、というのが正直なところ。

50年余りの人生で度々自己肯定感がダダ下がりしては這い上がることを繰り返しているが、今回はダメージが・・・。

 

閉経したのだ。・・・ということに気づいたのだ。

正しくは・・・

閉経していたのだ、ということに気づいたのだった。

 

仕事柄、自由にトイレへ通えない職場で過ごした18か月余りの間、

生理の期間が不安要素だったわたくしは、

つい、神様に

【しばらくの間、生理をお休みさせてください】と心からお願いしてしまった。

で、それが聞き届けられたようにピタリと・・・。

これ幸いとばかりに身軽にすごしてきたのだが、ここへきて全身の不調が現れるようになった。

神様からのプレゼントではなく、加齢による閉経だと確信するに至った。

全身の関節に、これまでに感じたことのない痛みを感じる。

下半身の大量発汗は酷くて淡色のズボンでは、くっきりと汗シミが出来てしまう。

全身の柔軟性が急激に失われたような感覚がある。

少々の段差でも身体がシナらずガタピシと軋む。

腕を上げたくない・・・

しゃがみたくない・・・

手指の第一関節に結節ができた・・・

 

身体の劣化が一気に加速して現れた今4月であった。

ただちに対策を講じよう。

適度な運動をしよう、いや、適度な運動にしよう!やりすぎだ!!

規則正しい生活をこころがけよう、夜ふかしをしすぎだ!!

 

そんな体の変調を感じながら、わたくしには、

どうしてもやらなければならない旅があり、今回ついに実行した。

関西3県都府弾丸旅(特に奈良)。

奈良を訪れたのは人生で2回目である。

 

初めての奈良は中学の修学旅行で

…運悪く生理と日程が重なってしまった。

加えて激しく腹を下していたわたくしは、

観光バスが目的地に着くやいなやトイレに駆け込む始末💦

額に脂汗をにじませてトイレのことばかりに思いを馳せ、

大仏さまの御顔も、高田後胤氏のお話しも記憶の端にも残らなかった…。

 

以来30余年、とんと奈良にはご縁がなかったのだが、

今回、【修学旅行】というやつを経験したことがない息子と共に

訪れることになった。

 

淡い木々の緑と

淡い花々のピンクと

淡い青空。

 

修学旅行のバスもまばらな朝の奈良公園に到着したわたくしたち凸凹親子に

そっと近づく若鹿が!

「まだ、せんべいを買ってないんだよ」と息子が残念そうに両手をヒラヒラさせると、

鹿も耳としっぽをクリクリと動かしながら残念そうに群れの中へ戻っていった。

そんなにお腹が減っている様子ではない。よかった!

まだまだ観光客も戻らない日々で、鹿たちはどうしていることだろう?と想いを馳せていた息子には拍子抜けだったようだが。

 

息子は結局、鹿せんべいを買わなかった。

「いいんだ、もう少ししたらこの子たちにも日常が戻る。それまでは、あげなくていいんだ」

そうで。

鹿に囲まれて絶叫する息子の写真を撮りたかったわたくしは納得できなかったが

それもそうかもしれないと深追いはしなかった。


昼食に柿の葉寿司を食べようと店に入ると

息子に続いて一頭の鹿が付いてきた。

「ダメだよ。お帰り」

そう息子が店の外に連れ出すが

気付くとテーブル席の息子の傍らで微笑むような眼差しでこちらを見ている。

「食べちゃうぞ」とわたくしが言ったら息子が嫌そうな顔をした。

常日頃、猟師になりたいと言っているくせに。


しかし。奈良は広い!広すぎる!

 

まだまだ観たいし

観せたい。

だけど時間は限られていて。

わたくしも年を取った。

一方で息子も成長し、そうそう母親と旅なぞするまい。

これが納めの親子旅だ。


そうだ!もし次に奈良を訪れる機会があったら

橋本駅からリニアモーターに乗って行こう。

その時には駅前にセグウェイとかシニアカーなどが置いてあることを希望する。

膝が痛かろうが各所拝観できることであろう。


cmとnsに息子のことを話した

三月いっぱいで仕事を退職した。

夫は呆れ顔で「また転職なの?」と言い、

一か月だけ扶養に戻して頂戴と願い出たが

「どうせまた働き始めるのだから国民年金国保に自分で入りなさいよ」と言われ

この日を迎えた。

 

3月31日21時。

帰りしなに都内で屈指と言われるケアマネージャー氏に息子の現状についてお話しする機会があった。

彼は「そろそろ息子を許して自由にさせてやりなさい。息子が生きているだけで幸せだ、ということを母として嘘のない言葉で伝えてあげて欲しい」と。

 

それを聞いていたナース氏から

「そうは言ってもね(-_-;)」とLINEが来た。

 

ようやく仕事を納め保険証を返却して帰宅した晩に歯痛が始まった!

おまけにクシャミと鼻水も止まらない。

花粉症。

仕事の緊張感で堰き止めていた水分という水分が出るわ出るわ・・・。

副鼻腔の腫れが歯茎を刺激し歯痛と頭痛を呼び起こす。

離職票が無い。

保険証がない。

鼻の穴にティッシュで栓をして布団を頭まで被った。

 

・・・一年と半年。

常勤で勤務したお陰で我が家の財政は危機的な状況を脱したといえる。

 

その一方で息子のことは、すっかり置き去りにしてしまった。

関われば再び悔しい思いが再燃し、息子にとってキツイことを口走ってしまう。

もう諦めよう、

導けないくせに親になった自分が悪い。

 

4月1日13時

息子が小学五年生の頃からお世話になっている臨床心理士

「お母さんとして手を尽くせることは全部やりましたね。親の思い通りに

育たなかった、という喪失感のようなものは否めないでしょうが、子供の思いを受けて伸びやかに育てたという点で百点ですよ」

、と労ってくれた。

、と同時に

息子もいつか、

普通のふつうのフツウの世界に戻ってくれると、頭のどこかで信じていた一縷の望みをぶった切ってくれた。

「就労するにあたって必要なスキルを身に着けるよう強制しても、それを本人が必要と感じ得ない限りは行動しません。」

「合理的な思考で行動する人です。」

「希薄な人間関係の中でもダメージはないでしょう。」

はつらつとした笑顔や友達や後夜祭の恋や青春のなんやかや。

この人の人生に訪れるだろうと思われていた

フツウの場面は、やっぱりやってこないんだ、と。

 

通信制高校の3年生。17歳の息子である。

4年間のsemi引きこもりを経て今日にいたる。

時を止めてしまった少年の部屋は中学・高校の教科書に紛れて今、夢中になっている地政学の書籍類が積まれている。

殆ど履くことなくサイズアウトとなったトレーニングシューズや柔道着やスパイクをゴミ袋に投げ込みながら息子が

「どうして学校へ通わなくなってしまったんだろう?」とつぶやいた。次いで

「やり直せるなら生まれてくるところからやり直したい」と、

真っすぐにこちらを見据えて言ったもので、ついわたくしも

「親にならないと覚悟を決めて21世紀をやり直したい」と本気で言ってしまったのだった。

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やっていない、聞いていない、言っていないを。

f:id:kanimega:20211214083930j:plain「いや、言った。お前はたしかに、そう言った」

夜中に電話をよこした父と口論になった。

どんな時間でも気付いた事があったら起こして知らせろ、と。わたくしが言ったから電話をかけた、と言うのだ。

何が起きたか?と、車で1時間の距離を急いだ身としては安堵よりも苛立ちが勝ったが、そんな夜中に父がわたくしに言いたかった事とは?

果たして…

「ベッドの向こう側にヘアブラシと耳掻きを落とした。取ってくれ」と。

…言ったわ。

確かにわたくしは、父に、そう言った。何でも言え、と。

だけどサ…。


ところで

わたくしたちファミリーには鉄の掟がある。

やっていない事を「やった」とは言わない。

聞いていない事を「聞いた」事としてすり抜けしない。

不当な扱いには真っ向から声をあげる。

自分の人生を守るために!


生きていく上にはあらゆる落とし穴がある。

穴だらけだ。


わたくしの叔父は落とされた穴から這い上がるために

36年の闘いを続けている。

今日、叔父の3回目の再審請求にあたり、小さな記者会見が行われるという。

もはや、わたくしは何の力にもなれないのだが、叔父の止まってしまったままの時間が動きだしますように、と祈るばかりだ。

ついでに父の困った物言いが、多少の可愛げのあるものになりますように…。




明けていく朝のミルフィーユを

翡翠色のワンピース👗を纏い横たわる彼女の目は

二度と開かない。

二度と凹まないエクボと

彼女と話した時間を思い出す…


今年3回目の葬儀参列は

友達を送るためのものだった。


この人を母として育ち、2年に及んだ闘病に寄り添ってきた息子さんの成長と、

「まだね、1日に2回は泣いちゃうんです」

と言う夫君の素直さに

彼女が駆け抜けた幸福な人生を見せつけられた。

ご馳走さま、だ。


この子に

母がいない朝が明けていく。

この人に

妻がいない朝が重なっていく。


彼女がいない、という気づきを

喪失感にしたくない!

重ねていこう。こんな人に出会えるギフトがまたあるかもしれない。臆せず進もう。


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笠を忘れないことにする

10月某日。

義父の四十九日法要は、雨だった。

 

遡ること3か月、義母の四十九日法要の日は梅雨明けの酷暑だった。

わたくしは寺での法要の後、会食を辞し職場に向かってしまった。

結果、義父と共に食事をする機会を永遠に失ってしまったのだ。

 

夏と秋。隣り合わせの季節で今年2度目の四十九日法要。

そして義母の時と同じ店での会食である。

義父の陰膳の前で義姉の箸は進まない。涙も止まらない。

マスク会席では会話もままならない。

義兄嫁が早々に席を立ち、義父の遺影に向かい好物だった鰤の刺身を供していた。

生醤油をタップリと浸けて。

わたくしも義兄嫁に倣い、漬物を醤油に浸して遺影に供してみた。

・・・ふと向けられている視線に気づくと

「みなしご」になった夫が冷ややかな目でわたくしを見ていた(-_-;)

 

kanimega.hatenablog.jp

 

その翌日も雨。

あれれ?傘が無い。ない、ない、ない?と傘を探すわたくしに

息子が閃いた!という顔つきで

「昨日の店だよ!キソロに忘れてきたんじゃね?」と言う。

・・・?

息子よ!それを言うならキソジである。

なるほど喪服のポケットには傘立てのカギ札が入っていた。

「雨晴れて笠を忘る・・・かぁ。」

「いや、まだ降ってるし!」

・・・嫁と孫のバカっぷりに、こりゃあ、じいじもあの世でビックリだろうなぁ・・・。

 

少しずつ哀しみから遠ざかっていかなくてはならないだろうが、

義父母から享けた恩は脳に身体に心に留めておかねば!

雨やんで人、傘を忘る。とかく人間は時の流れに過ぎし日の事を忘れがちなものです。推理と思い出のご対面!

 

幼少の頃TVで聴いた桂小金治の名調子を思い出しながら向かった和食レストラン【木曽路】で

わたくしは忘れた傘とご対面したのだった・・・。

 

 

 

 

 

隠れ蓑を脱ぐ時がきた

f:id:kanimega:20210918112923j:plain両親のことを「キヨちゃん」「テルちゃん」と呼んで育った

夫たち3姉弟である。

兄嫁も、そう呼んでいたが

わたくしは馴染めず、

「とうさま」「かあさま」と。そう呼ばせていただいた。

 

そんなわたくしと義父義母との距離感が不登校息子に伝わってしまったのか、は、

定かではないが、

物心ついた頃から息子は義父義母に対し「じいじ」「ばあば」と呼びかけることは無かった。

 

精進落としでの席で姉が

「そういえばウチの母親が生前ね、孫にバアバって呼ばれてみたいと言っていたな」と呟いた。ウチの母親がね・・・って。きっつ!!!!

次いで兄嫁が

「キヨちゃん、いつも泣いていたよね(;_:)kanimegaちゃんが親権取って出ていったらウチの孫がいなくなっちゃう、って・・・お墓のこともあるし困っちゃうって」。

兄嫁にだけ漏らした夫とのイザコザが、義父の耳にまで伝わっていたとは、この時まで思いもよらなかった。しかも、泣いていた・・・って・・・。えええええっ!!!!

 

ちなみに

夫には姉と兄が一人ずつおり、姉は未婚。兄夫婦は子を儲けなかった。

 

風当たりの強い精進落としの席であった。

夫は、あちら側の席の端っこで涼しい顔だ。

義父と義母を失って初めて曝される本音の嵐。

誰もが言葉を失った席でミンミンゼミの声だけが響いている。

 

※※※

 

再び炉の扉が開き、肉体を失くした義父と対面した。

足の骨が標本のようにしっかりと残った。

わたくしの介助を断り、車椅子を拒否し、最期まで2本の足で自立した義父であった。

その一方で、喉仏と言われる第二頸椎は欠けてしまっていた。

長年、職人として工場で旋盤を回し続けた義父の姿を思い出した。

長身を折りたたむように食い入るように機械に対峙していた義父の姿を。

 

義父の系譜を引き継ぐ息子のことが必要だという義理の家族たちの中で

役割を担ってこなかったわたくしには、既に居場所が無いことを悟り、

自分の身の振り方を真剣に考えなければならない事態に気づいた。

 

骨を拾わせて頂く段となり

共に箸を渡してくれる人が居ないわたくしに

息子が再度箸を手に取ってくれた・・・。

親という隠れ蓑の中に居て17年。

育児が苦行だ修行だとボヤいてばかりいたことをひたすらに反省。

 

 

 

みなしご父ちゃん

義母の百箇日と誕生日が奇しくも同日であった。

その日を指折り数えていたかのように義父が逝ってしまった。

仲良し夫婦であった。

いろいろな悲しみと輝きと思い出と後悔の中で、一つだけわかった事がある。

言葉にし難いが、敢えて言うならば、

『そういう事か。』と。


冷たく硬くなっていく義父の長い脚に触れながら

「父ちゃんは、今日から孤児(みなしご)なんだね」と呟いたら息子の失笑を買ってしまった。

振り返ると夫が苦笑しながら目尻を拭っていた。


親を送る、ということは、親孝行なんだと思えばこそ

夫よ!踏ん張れ!!

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