あの子、のことを書いたら
この子、のことも書いておかねばならない・・・。
東日本大震災の後に引っ越してきた、この子。
この数年、この子とは3月11日を同じ職場で過ごしてきた。
大丈夫かなぁ、と14時を過ぎると彼の表情をチラ見する。
どこふく風でもくもくと仕事を続ける彼が、
時折、自らの手のひらを握って開く動作を寂しげな瞳で見つめているのを確認しながら。
大切にしてきたものは、あの日およそ流されてしまったのだと言い、
離れざるを得なかった故郷について、それ以上のことは言わなかった。
だから、周囲もわたくしも、それ以上のことは聞こうとはしなかった。
ただ、彼は、きちんと泣いて悔しさとか、理不尽を誰かと共有できているのか?それだけが気になっていた。
先日、たまたま夜光虫の話題になり、それがあの子の被災の日の記憶に直結してしまった。
「信じてもらえないかもしれないから誰にも話したことが無いんですけどね」、
そう切り出した彼の話しは津波で流された車から這い出し、泳ぎ着いた家屋の二階で気を失ったところから始まった。
「気づくと夜になっていて、窓の外はまだ海に繋がっていて、その海が青く光っていたんです」
「帯状に青く。よくよく目を凝らしてみると青い光の先に自宅があるのが分かって。ああ、この距離なら泳ぎ着けると考えて、海は冷たいんだけど、青い光に向かって、また泳ぎ出ることができた」
青い光は、流れ出た油だったんだろうか?匂いもなく、ただ真っ直ぐに自宅の屋根の方角に続いていたのだという。
「泳ぎ着いて2階の部屋の窓ガラスを外して中に入ると、そこは浸水していなかったから着替えられて。階段から一階を覗いたら、不思議なことに前日に買い出ししたミネラルウォーターの箱が津波の勢いで押し上げられていたんです」
「口の中は、喉まで泥が入り込んでいたから。ミネラルウォーターでうがいが出来て助けられた。そこで、やっと、生き残ったという実感が感じられた」という。
同時に祖父母を救えなかった自分を悔やむようになった、という。
車の中に同乗していた祖父母は、車外に出ることを拒み、
「爺ちゃんと婆ちゃんは、このまま流されて行くから、オマエは泳ぎな」と毅然と言い、浸水しながら流されていく車から引きずり出すことができなかったという。
遺体は水が引いた日に車ごと発見したのだ、という。
この子の時間は、10年を経ようとしている今も止まったままだった。
あの日、のことを悔やんで苦しんで自分を責めて。
あの日、もしも別の行動が出来ていたなら、と遡って唇を強く噛む。
どうしても立ち返ってしまう、というこの子の記憶の前に他者の言葉は何の効力も無いだろう。
ただ、時間を経て、経験をやっと言語化できたこの子と今日、こうして対話できるのは、
孫を思う祖父母の強い意志があったから。
全てを呑み込んだ絶望の海が、この子には青い光の路を示して進め!と命じたから。
そう理解した。
極寒の海に泳ぎ出た、この子の経験にに学ばねばならない。
そして、若いこの子の未来にも、あの子以上の幸せを、と切に願っている。
ところで震災の日に青い夜光虫が出た、という話しは、他にあるだろうか?
コソッと検索してみたが見当たらなかった。